「合唱曲」と動画にはタイトルを打ったが、奇妙なことでもある。DUCの歌う楽曲はそもそも全てが合唱曲だからだ。
しかし日本では「合唱」という言葉は、複数人でともに歌うという「編成」である以上に、音楽のスタイルや発声スタイルまでも特定してきた。だからDUCの演奏が単に「合唱」と呼ばれることは少ない。
日本で合唱曲というと、声を頭に当てろと言われる、いわゆる「頭声」で歌うものがイメージされる。「裏声で歌えと学校の先生からは言われた」という学生(特に女子)も多い。学習指導要領で戦後からそのような発声が正義として奨励されてきたためだ。合唱といえば学校での活動、として、伴奏楽器はピアノだけで演奏される印象も強いだろう。
歌詞の方は、大きな夢を見よう、とか、みんなありがとう、とか、クラスで心を合わせるための最大公約数的な歌詞になりやすい。中学生の娘に言わせると「きれいごと」になる。そうでない場合は外来の宗教であるキリスト教の伝統的な歌詞や現実離れした世界観のある歌詞、言ってみれば「異世界的」なものだ。それも詰まるところ「だれかに反対される可能性が少ない歌詞の曲」になりやすいということだ。
つまり日本で合唱というと、「キャンプファイヤーでギターをかき鳴らしながらみんなで声高に歌う反戦歌」は入らないことになる。
戦後教育のせいで、「人が集まって歌えばそれは合唱」という当たり前の定義が日本では成り立たなくなってしまった。
これには、戦後の日本の合唱は「コンクール」によって広がったという歴史が関係する。まさに、甲子園があることで野球市場が育ったのと同じ構図かもしれない。
合唱連盟のコンクールは、名のある音楽家たちが集まり朝日新聞の後援を得て、戦後すぐの日本に広く音楽活動を取り戻すという素晴らしい志のもとに作りあげられた。コンクールがあることで、子供たちと教育現場に「挑戦」という熱量を作り出すことに成功したのだ。
しかし当然、競争熱を生み出すためにはルールや評価基準が必要だった。そのルールや評価基準は当時の高名な音楽家たち、すなわち、クラシックの訓練を受けた人々の価値観で作られた。
もちろん、良い音楽とは何かをよく知っているはずの「先生方」に審査を依頼しただろう。名のある音楽家であった彼らが自分たちが美しいと信じる音楽を情熱的に広げていったことを罪に問いたい気持ちはない。
しかし、音楽大学で過去の天才たちの偉業を学び続けた音楽家たちの音楽が目指すものはどうしても「天上の音楽」になる。すばらしいことではあるが、それはしばしば、地上に生きる人が日々の癒しや興奮を求める「地上の音楽」とは切り離されてしまう。
天を目指し続ける素晴らしき音楽家の「先生方」が座る審査員席を前に、ステージ上の子供たちはその先生方から美しいと言われる合唱を生み出し続ける。そんなコンクール型合唱の繁栄の歴史の中で、いつしかコンクールの評価基準は正義化し、標準化し、教育合唱を画一化した。学校で習うこの限られた合唱のスタイルこそが合唱という音楽ジャンルなのだと子供たちは認識して育ち、やがてそれ以外のスタイルの合唱は合唱とは呼ばれなくなってしまった。
J-popシーンで活躍するミュージシャンたちを生みだすような優れた音楽の専門学校も増えた。しかし、学校の音楽教員を生み出せるのは今に至るまで4年生の音楽大学のみだ。音大生はクラシックの合唱か、もしくは教科書に載るいわば「音大族」の作・編曲した合唱曲しか大学で学ばない。つまり、コンクール型の合唱しか学ばないわけだ。音楽教員たちははるか昔に「地上の音楽」とは分派してしまったコンクール型の合唱しか学んでいないし、それしか教えられないのだ。
残念ながら、伝統的な音大では決して学生に教えない価値がある。それは「地上の音楽」である民謡や祭囃子やポピュラー音楽が必ず持っている「地声発声」と「ビート」だ。
「残念」と言うのは、これらの「地声発声」や「ビート感」こそが人が最もお金を払い、日々テレビ、YouTube、カラオケ、お祭りなどで楽しむ要素だからだ。
ポピュラーで有名になった曲が学校の合唱用にアレンジされることもあるが、地声発声とビートの要素はまず教科書やコンクール用に編曲される段階、そして、現場で音大卒の先生によって教えられる段階、その2回にわたって「濾過」されて消えてしまう。
それはまるで「体に悪いから」と言って油分と塩分を取り除かれた給食のラーメンのようなものだ。学校の音楽教員は、残念ながら油分と塩分の扱い方を知らない。
ともすると、自分がそれらを扱えないことを肯定するために「油分や塩分は大事ではない」と語る教員さえ生み出すかもしれない。つまり、地声発声やビート感は音楽にとって大事なものではない、というフリをする音楽教師だ。
「私も一緒に歌いたいと思える。」
「繰り返し再生しながら日常の作業をしたい。」
「ペアチケットを買って恋人と聴きに行きたいと思える。」
「生演奏の現場にいけば、ともに熱狂できる。」
そんな当たり前の「地上の音楽」の体験と、天上の音楽を目指してきた「合唱」は、いつしか切り離されてしまった。
さて、COSMOSはライブハウスのバンドミュージシャンから生まれた一曲だという。「地上の音楽」出身なのだ。今回のDUCのアレンジは、そのCOSMOSを地上の音楽に引き戻す。
言うまでもないが、もともと有名曲でもなかったであろうCOSMOSを教育音楽に持ち込もうとした識者がいらしたことは尊敬に値する。だがその際に、現在の学校教育音楽で行われているものに近いアレンジはどうしても必要だったということはあるだろう。
大学の学生からも「COSMOSは好きだ」という声が聞こえてくる。COSMOSは地上の音楽を教育現場に吸い上げて成功した数少ない例と言えるだろう。
さてここに、失われた「地声発声」と「ビート」の「再添加」を試みる。
COSMOSはライブハウスという地上の音楽から学校教育に持ち込まれるときにコーラスの姿を得た。今回そのコーラスの姿はそのままに、地上の音楽に引き戻す。
すなわち、合唱でありながら地上の音楽である、パワーコーラスへと生まれ変わる。
創意工夫された元曲のアレンジを活かし残しながら、パワーコーラスとして少しシェイプアップし、バンドサウンドの追加によって完成させた。
合唱と地上の音楽の架け橋となるか。
DUC の COSMOSです。
Power Chorus Arrangement: Taro Kijima
Programmed Instruments: 木島タロー, 彩糸乃七
Mixing/Mastering: 彩糸乃七
https://youtu.be/y64rbe6gcCo
各パートを学習できる動画ファイルです。
Sopranoの動画は、右チャンネルにソプラノが、左チャンネルに他の2パートが流れます。右を聞いてパートを学んだり、左を練習の際のマイナスワンとして利用してください。
Soprano
https://youtu.be/qNQbaY1711E
DUC版 COSMOS の Instrumental / カラオケです。
https://youtu.be/ZDpPAzIzxqc