DUCディレクター木島タローの、みんなのうた採用および、DUCメジャーデビューにあたっての手記です。
みんなのうたの2025年2月期から3月期の新曲は4曲。
スターダストレビュー、Aqua Timez、Aimer(エメ)、という名だたるアーティストたちの末尾に、ヒット曲ひとつないどころかメジャーでさえないのに名前を連ねる僕らDUC, Dreamers Union Choir を、こいつら誰だ、と思う方は多いだろう。
僕らはアーティストとしてはほぼ無名の、ただ毎週集まって歌っている、言ってみれば社会人合唱団だ。
18年という長いDUCの活動の中で、学校公演などでの「黒人音楽史」や「70年代反戦歌の特集」の演目、また、求めに応じたJ-popの編曲などは評価していただいてきた。僕ももちろん、情熱を持ってやってきた。
こういったお仕事をいただけることは嬉しい。でも「本当は僕らのオリジナル曲にこそ、大切な全てが詰まっているのですが..」と内心どこかで思ってきたことは否定できない。心の底には小さく「どうせオリジナル曲は求めていないんでしょう」という、若く尖っていた日の僕がうずくまっていた。
でもDUCのメンバーたちはそもそもオリジナル曲を歌うために集まっている。チームとして18年間、一度もメジャーやお金に憧れて行動したことはなく、自分たちのオリジナル曲でのライブを作るという前提のもと、メンバー同士でお金を出し合いながらやってきた。僕自身もDUCからレッスン料みたいなものをとったことはない。
年に一回か二回の自主ライブでは最大200人ほどの方々が僕らの音楽に集まってくれて、オリジナルに感動したと伝えてはくれた。でも、そんな僕らに入ってくる「仕事」のほとんどは他人の曲を歌うものだった。YouTubeの動画も、10万回を超えるのはカバー曲だけだ。
それでもDUCの「オリジナル」を信じて、年末年始以外は欠かすことなく毎週月曜に集まり続けてきたのがDUCのメンバーたちだ。働きながら、母や父をしながら、大学に通いながら、学校で泣いた日も、フラれた日も、クビになった日も、それが月曜なら集まった。
僕らは人気グループでもなく、メジャーどころかインディーズと呼ばれるフィールドにさえいない。事務所もついてなければ営業さんもいない。毎週認め合える仲間と集まって歌っている時間こそがシンガーたちの最大の報酬であり、あとは、誰かが僕らの音楽を見つけてくれるのをただ待っていた。
もっと知ってもらわないと続けられない、という焦りを持ったことも何度もある。でも、売り込み営業もSNS戦略も、世の中の他の誰よりも僕らは下手なように思えた。正直な新メンバーから「SNSがダサすぎて入りたくないと思ったが、ライブを聴いたらすごかったから入ることにした」と言われたこともある。
ライブの情報が広がらないね、とため息をつく度に、僕らは歌を歌うのが専門だから、とか、ベストは尽くしてるから、と、自分たちを納得させ、音楽作りに戻ってきた。
それでも決してなくさなかったのは、自分たちが最終的にはオリジナルを歌うグループであるという自覚だ。それが自分たちの活動を維持するようなお金になったことはほとんどないのに、だ。
もちろんお気に入りのカバーを歌うことも、それはそれで大好きだ。だからこそ、カバーを歌うことだけが多少でも金を作ってきた18年もの間、オリジナルアーティストであるという自覚をチームが失わなかったことは驚異的なことだ。
つまり実のところ、大人気でもなく給料らしい給料もないことこそ、僕らにとって最大の強みだったのだ。人気やお金があれば必ず、それを理由に入ってくるメンバーがいる。そういう他のチームを知っているし、そういうチームの末路も知っている。一方DUCには、それでもここにしかないオリジナルを歌いたいというシンガーしか集まってきていない。DUCのメンバーの空気感を作っているのは、ヒットなどしたことのないオリジナル楽曲群なのだ。
NHKみんなのうたは、18年の夢の果て、初めてマスメディアから「あなたたちの ”オリジナル” が欲しいのです」と言ってもらえた機会だ。
いくつもの華々しい音楽番組が存在するが、合唱というスタイルと、「この声を持ち寄って、ぜったい伝えたい歌がある」というDUCの在り方にとって、みんなのうた以上にふさわしいオリジナルデビューの舞台があるだろうか。
みんなのうたに売り込みや公募はない(そうはっきりウェブサイトに書いている)。先方が僕らの合唱を発見してやって来てくれて、オリジナル楽曲の可能性を認めてくれた。
音源の制作はもし可能ならメジャーのレコード会社と協力してやってほしいとのご依頼だったため、「演歌合唱団」でお会いしていた日本クラウンに助けを求め、DUCメジャーリリースのお話はその後で始まった。
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(▲2025年2月6日スポニチ記事)
人は人気やお金があれば、自分が何者であるかを簡単に放棄できる。そういう人々を何人も見てきたし、彼ら/彼女らはいつも美味しいものでお腹がいっぱいで、いい部屋に住んでいた。成功とはそういうものなのだろうか、僕もここに行きたいのだろうか、いつか自分もそうなるのだろうか、そう自問したこともある。
「木島さん。ゴスペルグループとか、ゴスペル指導者だって名乗っちゃえば仕事は今の10倍来ますよ。細かいことはいいじゃないですか。とにかくわかりやすくなくちゃ。」と、有名ラジオ局のプロデューサーから飲みの席で言われたこともある。でも「それではない者を名乗ること」でお金が入ることを成功だとは思えなかった。偽物で大きくなったら偽物の自分を信じる人々と支え合うジェンガの1ブロックになる。とりあえず大きくだけなって後で本当の自分になろうという「いち抜けた」は、実際にはできない。
今ははっきり言える。自分が何者であるかを見失わなければ、そのことの先には必ず見たい景色が待っている。
「校長センセ宇宙人説」は制作にあたって内容を全面的にこちらにお任せいただいた、音楽も言葉も完全に僕とDUCのスタイルの一曲だ。
たったひとつのご要望は、「2分20秒に収めること」。でもそこには、DUCの「自分が何者であるかを見失わなかった18年」が詰まっている。
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(▲NHK 新BS日本のうた 収録日の楽屋にて)